藤田敦史ヘッドコーチが駒澤大学の陸上部の監督になることが話題になっていますね!
藤田敦史ヘッドコーチといえば、マラソン選手として世界の大会でも戦ってきた人物。
これまでの経歴や学歴などが気になりますよね。
今回は、駒澤大学の藤田敦史監督の経歴と学歴をまとめてお伝えさせていただきます。
貧血だった現役時代や、監督としての評判についても調査してみましたので、最後までご覧くださいね!
藤田敦史監督(駒澤)の経歴まとめ!
駒澤大学の藤田敦史監督の経歴をまとめてみました。
1976年 | 福島県白河市に生まれる |
大学卒業後 | 富士通に入社 |
1998年9月 | 世界ハーフマラソン選手権大会 30位 |
1999年3月 | びわ湖毎日マラソン 2位 |
1999年8月 | 世界陸上セビリア大会男子マラソン 6位 |
2000年12月 | 福岡国際マラソン 優勝 |
2001年8月 | 世界選手権エドモントン大会 12位 |
2002年3月 | 東亜マラソン 優勝 |
2004年7月 | 札幌国際ハーフマラソン 8位 |
2005年3月 | びわ湖毎日マラソン 10位 |
2005年7月 | 札幌国際ハーフマラソン 11位 |
2005年12月 | 福岡国際マラソン 3位 |
2006年12月 | 福岡国際マラソン 8位 |
2007年2月 | 別府大分毎日マラソン 優勝 |
2007年7月 | 札幌国際ハーフマラソン 6位 |
2007年12月 | 福岡国際マラソン 8位 |
2009年3月 | 東京マラソン 10位 |
2009年9月 | ベルリンマラソン 8位 |
2010年2月 | 熊日30kmロードレース 優勝 |
2011年2月 | 別府大分毎日マラソン 5位 |
2013年3月 | びわ湖毎日マラソン 途中棄権 |
2013年4月 | 長野マラソン 途中棄権 |
2001年以降は、坐骨神経痛から来る足腰の不調から、思うような走りができなかった藤田敦史監督。
オリンピックの日本代表入りを果たすことは叶わず、2013年で現役引退となりました。
引退後は、富士通の陸上競技部のコーチに就任、指導を続けていました。
さらに、2015年からは出向という形で、駒沢大学の陸上競技部のコーチとなりました。
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藤田敦史監督(駒澤)の学歴もまとめてみた
駒澤大学の藤田敦史監督の学歴もまとめてみました。
1995年 | 清陵情報高等学校 卒業 |
1999年 | 駒澤大学経営学部 卒業 |
藤田敦史監督は、元々は陸上にそれほど興味がなかったとか。
中学2年生のときに出場した市内マラソンで3位に入賞、それを見た体育の先生が
「長距離なら向いているんじゃないか」
とマラソンの道を勧めてくれたといいます。
中学時代の駅伝大会では区間賞に輝く活躍を見せ、高校に進学しますが、清陵情報高校は陸上には強くありませんでした。
無名の高校時代を過ごした藤田敦史監督は、当時の駒澤大学のヘッドコーチである高岡公コーチに声をかけられ、駒澤大学に進学します。
駒澤大学に入学した藤田敦史監督は、大八木監督と出会い、4年連続で箱根駅伝に出場、卒業後にマラソンへの道を歩むことになります。
学生時代の出会いが、藤田敦史監督の現在まで影響していると思うと、感動してしまいますね!
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藤田敦史監督(駒澤)の現役時代は貧血だった!
駒澤大学の藤田敦史監督の現役時代は貧血で、食生活にかなり苦労されたことが分かりました。
駒澤大学に入学した藤田敦史監督は、すぐに大八木監督に
「貧血だから病院に行け」
と言われたといいます。
その後は、大八木監督の妻で寮母をしていた京子さんにレバーをたくさん食べさせられたとか。
同じ味だと飽きるため、毎回違う味で、たくさんのレバーを食べ、少しずつ貧血を改善していったんですね。
藤田敦史監督後のインタビューで、「食べ過ぎて嫌いになりかけた」と語っていましたよ!
現在でも貧血の経験を活かし、選手たちの健康管理を徹底しておられることと思います。
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藤田敦史監督(駒澤)の評判は?
駒澤大学の藤田敦史監督の評判についても気になりますが、選手たちからは、兄貴的な存在として慕われていることが分かりました。
大八木監督と学生たちでは、親子ほどの年の差があり、なかなか気軽に話しかけてこないんだとか。
そこで大八木監督からは、藤田敦史監督には自分の厳しさの分まで選手たちの話を聞くように、と指導されたといいます。
駒澤大学の卒業生でものまね芸人のM高史さんも、
「練習以外では優しく話しかけてくれた」
と語っており、一緒にB’Zのライブにも出かけたんだとか。
藤田敦史監督の心配りが、駒澤大学の強さの元となるチームワークを生んでいるのではないかと感じます。